日本の美術界には、自分が日本の社会には適合しない、異質な存在であると思っている人たちが多いと思います。しかし自分が異質で、特異な存在であるということ自体が、既に日本という社会に本質的に属した存在であることを知らなければなりません。このことを理解しないで、美術というものが、社会や共同体と対立するものだなどというのは陳腐なことです。

異質であることが既に日本という社会(共同体)に属しているということを、森有正は「パリ随想」(『森有正全集第4巻』)の中で、次のように述べています

日本の共同体に対する例外者の姿勢は、その共同体そのものが必要とする姿勢なのであり、日本という共同体の本質そのものに属する。

それは常に共同体との対象の上に実行され、何らかの仕方で、それに包括されるような形で遂行される。

結局共同体内部の徳目を適用して、それを包括しようとするのみならず、最後は、共同体そのものに帰還し、その価値の階層の中に安定して価値を占めるに至るのである。

おそらく今日の日本の美術界で、異質であるということが、実は「自己の価値を自覚する」方法であることを最も理解し、何時か「共同体そのものに帰還し、その価値の階層の中に安定して価値を占める」ことを望んでいると思われるのは、村上隆です。しかし異質であるということが、日本という共同体の本質に属するものである以上、そこに日本という共同体を成立させている「本質」に対する批判があるわけもなく、また見付けることも出来ません。

異質であることが、既にその社会(共同体)の本質に属しているという事実に甘えているのが、日本の現代美術の現状です。そしてこの甘えが、「誰の真似もするな」というような、日本の現代美術に特有な幼児性を助長させているのだと思います。