「何故、日本人は自然(震災)と向き合えないのか」

福島の原発が危機的な状況にあることは確かなのだけれど、何故か、原発の問題を積極的に論じる人は沢山いるのに、地震津波のことを積極的に論じる人は少ない。どうやら地震津波というのは、自然災害だから仕方がない、諦めがつくが、原発は人災だから許せないという心情が働いているようなのだけれど、本当にそうなのだろうか。
この問題を考える手がかりとなるのが、カタルーニャ国際賞を受賞した村上春樹のスピーチに対して、次のような批判を述べている芸評論家の佐藤清文の文章である。(http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/nm.html

村上春樹の文学はアイロニーである。歴史的・社会的に意味のあるものや価値のあるものとされてきた対象に無関心を装い、そうではないものを選び、自分の意識の優位さを確保する。非常に見え透いた手口なのだが、現状維持の精神にとってこの世界は適合する。恣意性に満ち溢れた極端な主観主義が村上春樹である。しかし、この手法では自然災害を直接的に扱えない。地震津波は人間の事情などお構いなしに発生する。梅雨だろう、真冬だろうと、早朝だろうと、深夜だろうと。起きるときは起きる。村上春樹のお望みの自意識の優位さを確保できないので、テロや原発事故といった人災と違い、阪神・淡路大震災東日本大震災には言及を避ける。 

村上春樹アイロニー作家であることは、実は、非常に社会の動向に敏感なことを指し示している。歴史や社会へのアイロニーなのだから、それに依存している。社会的に大きな影響を及ぼす災害が起これば、やはりとり上げる。ただ、作品に導入する際、自然災害はたんなる口実である。地震に触れていても、それでなくても実際にはかまわない。そうでないと、自意識の優位を確保できない


佐藤の自然災害は「テロや原発事故といった人災と違い」「自己の優位性を確保できない」という指摘は鋭い。そして佐藤のこの原発事故は問題に出来ても、自然災害については沈黙することしか出来ないという批判は、日本の現代美術にも通じる批判でもある。たとえば岡本太郎の壁画(「明日の神話」)に、福島第一原発の絵を描き加えたChim↑Pomというグループの行動を擁護する言説である。もちろん原発の危機的な状況を考えれば、誰かが何らかの行動を起こすことは当然理解出来ることなのだが、その行動は「将来ヴィジョンを欠く」もので、「問題設定は恐ろしく時代遅れである」、と言わざる得ないものである。

しかし何故か、日本の美術界では、彼らの行動は批判されるものではなく、過大に評価されようとしている。Chim↑Pomの行動は、確信的にスキャンダルを狙った行動であったにもかかわらず、世間的にはあっという間に忘れ去られ失速したネタである。それは何故かというと、「テロからデモ」という、今日の世界的な潮流の中では、彼らのゲリラ的な行動の後に、声明を出すというのは、今日の市民社会においては、もっとも忌み嫌われる行為であったからである。


この「テロからデモ」への移行を、佐藤清文は次のように解説している。(http://www.geocities.jp/hpcriticism/oc/usama.html

社会には不正や矛盾が溢れており、変革が必要だ。それには手段を選んでいられないのであって、そのためには、自分が捨石になってもかまわない。けれども、特段の将来像も持たないこのエリート臭漂う英雄主義は民衆の間では説得力をすでに失っている。

テロはフラストレーションのはけ口になっても、体制の変革につながらない。テロリズムの脅威は生活の安全を脅かすことではなく、それを口実に為政者が自由や民主主義を制限することにあると人々は気づいている。ウサマ・ビンラディンのようなテロリストは独裁者の圧政に手を貸しているのと同じだ。

残念ながら、日本の美術界では、このような「テロからデモ」への移行が認識されていない。そのようなことよりも「自己の優位性を確保」する為に、Chim↑Pomの行為が賞賛されるのである。


佐藤と同じように、村上春樹のスピーチに対して批判的なコメントを寄せているのが藤原新也である。藤原は次のように述べている。(http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20110611

私たち表現者がその様子を伝えるものまた二次情報であるわけですが、今回の件に関しては、加工された二次情報をもとにそれに触れて書いたりしゃべったりする従来のやり方は通用しないと思っております。
つまり他者に何かを伝える立場にある表現者は一般の人々と共有している同じ情報をもとに発言をするのではなく、自分の眼で一目でも見て体感するところからはじめてほしいというのが今回の件に関する私の個人的な考え方です。 


私が住んでいる仙台市青葉区も、震災当日、非常に大きな揺れに襲われ、先行きの見えない不便な生活を強いられました。しかし誰一人として、自分たちが被災者と思っている人はいません。何故なら、津波の被害に襲われた沿岸部の人々の困難、苦しみを知っているからです。私たちの苦労など比較にならないほどの風景がそこにはあるのです。人間的な意味を全て剥奪された風景、死の領域に属する風景、この自然事象の不可解さを知りもしないで「自己の優位性」を語る人たちを、私は絶対に許さない。