書籍「組立‐転回」に拙文が掲載されています。
「震災という未曽有の出来事を経験しても「自然とは何か」という問いが日本の現代美術から発せられないのは何故か」という、無駄に長いタイトルの文章ですが、ご興味のある方は、是非、お読み下さい。
購入方法など、詳細は下記のサイトを参照して下さい。
http://d.hatena.ne.jp/eyck/20140221

美術と自然−なぜ日本美術は原始回帰するのか−

『所沢ビエンナーレ展2011』のカタログに掲載された文章を訂正したものです。


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美術と自然−なぜ日本美術は原始回帰するのか−
井上幸治

翻訳語としての自然
なぜ日本の美術は原始回帰するのか、それがここでの問いです。このことを私は「自然と美術」の関係から考えてみたいと思います。ただ少し厄介なのは、「自然」という言葉は、natureの翻訳語であるのですが、そのことがほとんどの人に気づかれていないと思われることです。柳父章の『翻訳の思想』*1を参照しながらいうと、「自然」という言葉がnatureの翻訳語として定着したのは明治中期以降のことになりますが、それは比較的新しいことであって、「自然」という言葉がnatureの翻訳語として定着する以前は、「天地」、「万物」、「造化」、といった言葉が用いられていました。なぜnatureの翻訳語に「自然」が選ばれたのか。このことはとても重要な問題であるのですが、まずここで問題としたいのはnatureと、その翻訳語である「自然」との間には、共通する意味と違う意味が混在しているということです。
意味が混在しているとは、文脈上はnatureと同じように、「自然」という言葉も、物質的に対象化された世界を意味する言葉であるのに、それとは全く違う別の意味の言葉でもあるということです。たとえば西欧における自然とは、人間主体と対立する客体的な世界のことです。ですから当然、人間精神の営みである美術と自然は対立する概念として理解されることになります。しかし日本古来の自然観あるいは、美意識というものは、西欧のように明確に自然を主体に対する客体とは見なさないものであるので、「自然」という言葉をnatureの翻訳語として使いながら、「自然と美術」は対立しない、主客未分化なものでもあると、西欧とは全く違う意味の言葉として使っている訳です。
もちろん、自然という言葉の意味が、日本と西欧で違う意味であってもよいのですが、問題なのは、そうした意味の違いが意識されることなく、使われているということです。たとえば西欧の美術史を学んでいると「自然の模倣」という言葉が出てきますが、ここでいう「自然の模倣」とは、分かり易くいえば自然を自然科学的な態度で観察するということです。つまり、ある方法と観念を持って自然を見る。自然に近づくということです。ここで大事なのは、どんなにそれが自然に肉迫しているように見えても、それは自然そのものではないということです。しかし、「自然の模倣」の「自然」を、人間主体と対立しない日本的な意味として理解すると、「自然の模倣」は、自然と一体化した境地を目指すことを意味する言葉になってしまうのです。
当然、これは意味の矛盾です。このような矛盾を回避するには、どういう定義で「自然」という言葉が用いられているのかを、その都度提示しなければなりません。たとえば谷川渥の『肉体の迷宮』*2 では、「「自然の模倣」の「自然」とは、対象のもつ本性の意であり、そして対象とは、端的にいえば、人間のことなのである」、という定義がなされていますが、なぜ、こんな説明を読者にしなければならないのかと言うと、そうしないと正確な議論が出来なくなってしまうからです。どうして誤解が生まれるのかといういと、「自然」という言葉がnatureの翻訳語として定着したのは明治中期以降のことであると、はじめの方に書きましたが、「自然」という言葉が「山川草木」の総称として用いられるようになったのも、明治中期以降の出来事であったからです。それまで「自然」というのは、「自然な」(おのずからな)、「自然に」(おのずからに)、といったように形容詞や副詞として用いられてきた言葉であって、決して「山川草木」を総称する言葉ではありませんでした。それがnatureの翻訳語になることで、「山川草木」を総称する名詞として使われるようになったのですが、問題なのは「自然」(おのずから)という、ものの本性・本質を意味しない言葉が、natureという、ものの本性・本質を意味する言葉の翻訳語に選ばれてしまったことです。
なぜ、「自然」という言葉がnatureの翻訳語に選ばれたのか、その辺りの思想的背景については、相良亨が『日本の思想』*3 『日本の心』 *4の中で優れた研究を報告していますので、そちらを参照してもらいたいと思いますが、前提とする意味が全く違う、正反な言葉が翻訳語として選ばれているのですから、当然、大きな誤解が生まれることになります。しかし翻訳語の本質的な問題とは、こうした意味の違いから生まれる誤解にあるのでなく。意味の矛盾が気づかれないところにあるのです。柳父章翻訳語の本質的な問題を、「意味の矛盾は、使用者に気づかれないが、矛盾の語感は失われていない。反面、この意味の矛盾が、新しい意味を求め、新しい意味を作り出す」*5と述べています。「意味の矛盾が、新しい意味を求め、新しい意味を作り出す」とは、矛盾する意味に新しい意味を付与することで、矛盾の存在を隠蔽・忘却していくということです。つまり西欧と日本とでは、自然に対する概念が違うということは、薄々理解されている。であるのに、「自然」という言葉自体に意味の矛盾があることは気づかれないでいる。それはなぜかというと、natureと「自然」は別のものだと理解することが拒否されているからです。なぜ拒否されるのかというと、natureと「自然」を別のものだと理解するということは、そこに同一性を脅かす矛盾があることを認めることであるからです。
この矛盾を打ち消そうと発せられるのが、「西欧の自然を客体と見なす物質主義的な考えは間違っている」といったような西欧や西欧近代に対する批判です。なぜ「自然」という言葉から、このような西欧批判が語られるのかというと、言葉の同一性を確保するために同一性を脅かす矛盾を打ち消すための意味が必要とされるからです。意味や概念の違いを明らかにすることではなく、矛盾を隠蔽・忘却するための意味が作り出されるのです。しかし同一性を脅かす矛盾を、隠蔽・忘却することで語られる「自然」とは、所詮無知に立脚した他者理解でしかありません。そしてこのような無知に立脚して、「自然回帰」「原始回帰」ということを叫んでいるのが、日本の現代美術です。


●縄文というオプティミズム
日本の現代美術で語られる「自然回帰」「原始回帰」と、「自然」という言葉の同一性を確保するために語られる西欧批判には繋がりがある、というのが私の考えです。つまり、それは共に他者理解の欠如のうえに構築される批判でしかないということです。なぜそれが他者理解の欠如によるものかというと、そこにはたとえば西欧の行き過ぎた物質主義を批判すれば、それが西欧及び西欧近代に対する批判になるという、安易な他者理解が潜んでいるからです。この批判の的外れなところは、確かに個我の自覚の上に成立する西欧の近世思想には、自然科学を媒介にして、自然を支配としようとする意志が存在していますが、近代思想や近代自然科学とよばれるものは、このような近世の人間中心的な自然観から脱却して人間と自然とを相対化するものであるからです。
近世の自然を支配しようとする人間中心的な考えから脱却しようとするのが、近代思想や近代科学とよばれるものです。このことを正しく理解しないで、「物質」に対する批判として「精神」を述べているとしたら、人間が自然から脱却して、人間と自然との関係を人間中心的な考えから相対的なものへと移行するには、理性をもって自然を客観的に認識判断するデカルト的方法が有効であったということ全く理解されていないということです。合理的とは、理性的に認識し判断するということですので、当然そこには理性に対する不安というものが常に潜んでいます。しかし人間は自然から脱却することで、はじめて自然との関係を相対的なものであると認識するに至るのです。そしてそれを可能としているのが、デカルトが用いた科学的認識です。一般的に近代及び現代思想における非デカルト的立場というのは、そこで認識された「相対性」に立脚するものと考えられるものなのですが、日本では人間と自然との関係が未分化であるアニミズム的世界を対置すれば、それが西欧合理主義に対する批判になるという安易な理解しかされないのです。
たとえば松井みどりの「土の感触、想像力の目覚め」*6(『美術手帖』2010年7月号)、という文章をみると、驚くほど、人間と自然が未分化な状態であることが肯定されています。松井はここで奈良美智という作家の作品(あるいは作家本人)に、霊的世界との橋渡しをするシャーマニズム的な役割を期待しているようですが、松井が奈良の作品に見るアニミズム的世界の特徴というのは、たとえば「超越的な存在である仏とは対峙的に、古代の神とは、草や木、川の流れや土の養分のうちに宿る、生命の力の現われであったことを思い出させた」という言葉からも分かるように、仏に代表されるような超越性あるいは、普遍性から離れることが、自然と人間が未分化で、霊的世界と一体化した状態だと理解されていることです。
自然が擬人化あるいは、人格神として表象されるには、それまで畏怖の対象でしかなかった自然と人間との間に意思の疎通を可能とする宗教の存在が不可欠であるのですが、ここではそこから離れることが、自然ないし霊的世界との交渉を可能とする条件であると見なされて、さらにその先に「世界の機械的合理化に抵抗する生命力や精神の働き」という「救済」が約束されています。しかし人間と自然との交渉というのは、本来、神話から宗教への移行から生まれてくるものです。たとえば折口信夫は、万葉の古代人には「感謝する神がなかった。孤独に徹しても光明の赫奕地に出た事はない*7」と述べていますが、「感謝する神がなかった」とは、「救済」を約束する神がこの国にはいなかったということです。
折口の理解する古代は、「荒ぶる神」でしかなかった自然の前に、古代人は絶対的な孤独、絶対的な静寂を強いられて暮らしていた。しかしそこに仏教が伝来したことで、孤独と感謝、静寂と光明、悲痛と大歓喜とがはじめて一続きになり、それまで他力生活をしらなかった古代人に救済がもたらされたというものです。最も折口は古代人の絶対的な孤独と静寂の中から、歌が生まれ謡われたと考えていたので、仏教のもたらした救済というのは、折口にとっては否定の対象でしかありませんでした。折口の憧憬する古代が、呪うべき孤独と静寂が支配する世界であるのに対して、松井の憧憬するアニミズム的世界には、世界の不条理、不如意というものが全く見られません。松井が奈良や茂田井武の作品から見出す自然あるいは、霊的世界と一体化した世界といのは、明らかに仏教に影響された自然観によるものです。しかし、松井にはそのことが気づかれていないのです。気づかれないから、アニミズムがこのように、オプティミズムとして語られてしまうのです。
古代に空想的なユートピアを思い描き、そこに無時間的に変わらない日本文化の不変性を求めるというのは、本居宣長によって形成された日本文化観です。そこでは仏教や儒教といった外来性の思想に影響されていない「日本的なもの」が求められるのですが、近世日本の知識人たちに見られる「古代憧憬」と、日本の現代美術に見られる「古代憧憬」との大きな違いというのは、テクスト有無です。近世日本の「古代憧憬」には『古事記』や『万葉集』という、古典となりうるテクストが存在しますが、日本の現代美術に見られる「古代憧憬」には、テクストとなりうる古典がありません。このテクストの有無をもって私は、日本の現代美術に見られる「古代憧憬」(「原始憧憬」または「原始回帰」)と、近世日本の「古代憧憬」とを区分して考えたいと思うのですが、テクストとなりうる古典がないゆえ、日本の現代美術は「洞窟絵画」や「縄文の美」というものを、オプティミズムとして語ることしかないのです。
「原始的なもの」をオプティミズムとして語ることしか出来ないので、たとえば岡本太郎のような人物が、テクストの不在を埋めるために、絶対的権威に仕立て上げられていくのです。しかし近代(現代)の批判として見出され、語られる牧歌的な古代というのは、所詮、近代によって作りあげられた古代像でしかありません。現代に対する批判として、たとえば「核」に対する批判として、岡本太郎(縄文)を対置してみても、それがオプティミズムにしかならないのは、自然を直視することが避けられているからです。「あきらめ」という自己救済によって、自然を直視することを避けている限り、美術というものは生まれてきません。なぜなら、美術とは、混沌としたこの世界(自然)に作りあげられる秩序であるからです。

*1:柳父章『翻訳の思想−「自然」とNATURE』(平凡社、1977年)

*2:谷川渥『肉体の迷宮』(東京書房、2009年)

*3:相良亨『日本の思想 理・自然・道・天・心・伝統』(ぺりかん社、1989年)

*4:相良亨『日本の心』(東京大学出版会1984年)

*5: 柳父章『翻訳の思想−「自然」とNATURE』(平凡社、1977年、p.124)

*6:松井みどり「土の感触、想像力の目覚め−奈良美智の原点回帰−」(『美術手帳』2010年7月号)

*7:折口信夫「歌の円寂する時 続」『折口信夫全集第7巻』(中央公論社、1974年、p.312)

ゴッホが色彩を肯定するまでの美術史

クロモクラスム(色彩破壊論)と呼ばれる西欧のキリスト教社会における色彩を巡る論争には長い歴史がある。否定派は「神性」を可視的なものとして表現することは出来ないという立場から、色彩を不道徳で虚栄なものと断罪するが、肯定派は色彩を物質ではなく光(神)に属するものという立場から、それを「聖なる」ものと見る。ここで重要なのは論点が色彩を物質とみるか、それとも非物質とみるかにあることである。

美術史において色彩のあり方が大きく変わったのはゴッシク様式が登場する13世紀である。建築様式がそれ以前(ロマネスク)の壁体構造から、支柱などの骨組みによって構成されるゴシック様式に移行することによって、ステンドグラスという「光の壁」が出現し、光(色彩)に対する熱望が強まる。それは建物自体を窓枠として意識させてしまうほどであったが、ここで牽引的な役割を果たしたのがサン・ドニ修道院を中心としたクリュニー派の人々であった。

クリュニー派に対して、否定派のシトー派が存在したが、染色科学の発達などにより、この時代以降、色のスペクトルは多様化し、色彩の区別もより精密化していく。彩色写本に祭壇画、いたるところに色彩が溢れていた。肯定派の人々にとって、もっとも危機的な状況であったのがルターの登場である。文字通り色彩破壊運動が起きたのであるが、象徴的なのは活版印刷の登場により、聖書が光り輝く書物(彩色写本)から、モノクロの印刷物に変わったことである。

16世紀以降、作品が破棄されるかも知れないというリスクから、プロテスタント圏に住む作家達が色彩の使用に対して慎重であったとしても何ら不思議はない。では、ゴッホはどうか。もちろんゴッホプロテスタント的環境で育ったことだけをもって、この問いが成立するとは思わない。しかし、ゴッホの絵画の問題とは、いかに色彩を肯定するかという問題であったのではないのか。

たとえばゴッホの「画家は自然の色から出発するかわりに、パレットの色から出発すればうまくゆくのだ」という言葉。ここにある印象派に対する批判とは、色彩が物質ではなく、光の側に属するとする態度である。たとえばモネの連作(「藁積み」「大聖堂」)では、時間の経緯と共に移ろい行く色彩が描かれているが、色彩が自然光の条件(時間)によって変化するとは、色彩が藁や大聖堂という物質の側に属するものではなく、光という非物質的なものの側に属し、その条件に左右されることを意味する。

印象派が固有色に縛られることなく、そこから自由になっていくのは、色彩と光の同一性に対する信頼からである。モネにとって光の追求とは、疑いもなく色彩の追求を意味した。しかしゴッホの態度はこれとは違う。ゴッホにとって色彩とは自然光の条件に左右されるものではなかった。ゴッホにとって色彩とはパレットの上にある絵具そのものであった。絵具という物質が色彩であるのだから、それは自然光に従属するものではない。おそらく色彩を肯定するのに、色彩の物質性を持ち出したのはゴッホが始めてである。そしてそこにゴッホの絵画の暴力性があると思うのだが、もしかしたらゴッホにとって色彩とは光に見捨てられた存在であったのかも知れない。

「ゴッホ展 空白のパリ時代を追う」/宮城県美術館

ゴッホのパリ時代(1886〜88年)を焦点とした展覧会であるので、晩年の狂気じみた作品は出品されていないが、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館が所蔵するパリ時代の作品郡は十分に見る価値があったと思う。気になったのは石膏像(トルソ)を描いた油彩画。男性のトルソ1点と、女性(ヴィーナス)のトルソを描いたものが4点出品されていたが、驚いたのは石膏とはいえ女性の豊満な体、曲線を、ゴッホがモチーフとしていたことである。4点とも青を背景としているが、1886年に描かれた2作品(「ヴィーナスのトルソ」)が、グレース基調の色彩と絵具の厚みで石膏像のヴォリューム感を表現しようとしているのに対して、1887年に描かれた2点(「女性のトルソ」)は、薄塗りで陰影部に緑と赤が使われているという違いが見て取れる。おそらく87年に制作された2点には、色彩によってヴォリューム感を表現しよという試みがあったのだと思われる。石膏像なのでオーカー系の色こそ使われていないが、上に塗り重ねればかなり生きた人間の肌色に近づくと思われる。ゴッホの人物画に見られる、緑(ヴィリジアン)、赤(バーミリオン)、黄(イエローオーカー)の組み合わせは、ヴェルダッチョという人体のヴォリューム感を表現するフレスコ画の技法を思いおこさせるが、もちろんゴッホは下地を作りその上に彩色するようなことはしていないので両者は同じではない。

ゴッホの絵画で問題となっているのは常に色彩についてである。それ以外の点は初期のオランダ時代からあまり変わりが見られない。いろいろな試行錯誤は成されているのだが、対象をどう捉え描くか(デッサンするか)ということは、かなり早い段階で確立されている。従って、下手な絵というものは描き方が分からない絵のことだと規定すれば、描き方が確立されているゴッホの絵は下手な絵ではない。実際、ゴッホはオランダ時代から十分に見せる絵画を描いている。ただ自画像が良い例であるのだけれど、作品のサイズに関係なく同じ描き方がなされているので些か呆れる。作品のサイズに関係なく、鼻の処理の仕方、服の描き方が同じなのである。小さい作品であるのだから、簡単に一筆で表現すればよいよう服の表現なども、大きい作品と同じだけの手数のタッチ(というかハッチング)で描かれている。

オランダ時代とそれ以後の違いは何かといえば、やはり色彩である。契機となっているのは印象派及び後期印象派の存在であるのだろうけれど、ゴッホ印象派後期印象派の理論をどこまで理解していたかはかなり疑問である。印象派的に明るい色彩を用いて描かれた作品(「サン・ピエール広場を散歩する恋人たち」)はあっても、それは印象派の絵のように明るい絵画ではない。モネと同じようにセーヌを描いてみても(「セーヌ河岸」)、ゴッホの眼にはモネのように水面に映る光(色彩)が知覚されていないのである。もっとも印象派の絵画をただ明るいだけで光がないというゴッホの作品が、印象派的な絵画でないのは当たり前かも知れない。そもそもモネとゴッホでは色彩と光の定義が始めから違うのである。

ゴッホの絵画に見られる色彩の問題は、印象派のように自然光の条件に左右されるものでない。光というものが内面的で多分に信仰的な世界に存在するゴッホにとって重要なのは、自然光の条件に左右されない色彩、絵具という物質と一体化した色彩であった。そしてそこにゴッホの絵画の暴力性がある。ゴッホの絵画の暴力性とは色彩を物質として提示するだけでなく、それを肯定してみせたことである。なぜそれが暴力的かというと、キリスト教世界でクロモクラスム(色彩破壊論)が起きたのは、色彩を光ではなくものを覆う物質とする考えがあったからである。そこで色彩が肯定されるには、色彩を物質ではなく光とみなす必要性があった。ところがゴッホは色彩の物質性を否定すべきものとしてではなく、肯定すべきものとして提示するのである。ここで些か話が複雑になるのは、ゴッホが育ち且つ牧師になることを望んだプロテスタント的環境とは、色彩の物質性を非難・攻撃した大元であっても、決してその物質性を肯定する環境ではなかったことである。もっともゴッホの暗いと同時に明るい絵を求める心情は、この辺に由来するものなのかも知れない。

ロマン主義は「いま」と「ここ」の否定から現実性の再確認を目論んだが、日本の現代美術は「いま」「ここ」を肯定しながら、現実を遠ざけ、ありもし得ないユートピアを夢想する。日本の現代美術が夢想するユートピアは観念としての「自然」であるので、実体としての自然。大震災はいとも簡単に忘却される。

風間サチコ 展「没落THIRD FIRE」/無人島プロダクション

『噫!怒涛の閉塞艦』という巨大な木版画が展示されていたのだけれども、これは2005年に制作された『風雲13号地』と対になる作品らしい。おそらく『風雲13号地』で予見されていた大艦巨砲主義で開発一辺倒に突き進む日本の「成長神話」に対する危うさが、原発事故により現実のものとなり、これまで日本の「成長神話」を支えていた「安全神話」 が崩壊したというのが、『噫!怒涛の閉塞艦』の世界なのだと思う。面白いのは『風雲13号地』の舞台となったお台場というのは、幕末に徳川幕府が異国船の侵入に備えて作った砲台(砦)があった場所なのだけれども、安政2年(1855年)の大地震崩れ壊れてしまい、幕府は海防の防衛線を失う。同じように今回地震で壊れたのが、東京から離れていれば安全だろうという発想から田舎の過疎地に作られた原子力発電所で、放射能はあっという間に東京の防衛線を突破してしまったということである。防衛線を突破されてしまったのだから、東京を主戦場とする風間がテーマとするのは「首都防衛」である、と勝手に思う。もちろん撤退戦という選択肢もあるのだけれども、東京(江戸)というのは、学童疎開はあっても、撤退という選択肢が歴史にない街であって、無血開城で全面降伏するか、上野の彰義隊のように壊滅するしかなく、風間の選択も撤退ではない。撤退どころか東北まで視察に来て首都防衛をやる気満々のように見えるのだけれども、風間の作品のジレンマというのは、彼女がどんなに近代批判という観点から、国家や官僚制という制度や枠組みを可視化してみせて、それらが「敵」として認識出来るものにしてみせても、日本というのは枠組みだけあって中身がない国であるので、日本で近代批判というのを突き詰めると、問題なのは制度や枠組みではなくて、実は中身の方、つまり近代的な市民というのが居ないことなのではないの、というところに辿り着いてしまうことである。

風間が作品上で孤独な戦いを続けているのは、日本という国が革命の起こらない国であることと無縁ではないと思う。では、なぜ日本で革命が起きないかといえば、近代的な市民が居ないからですね。近代的な市民が居ないから、どんなに近代の制度や枠組みを可視化してみせても、何も起こらない。何も起こらないから、上野の彰義隊みたいになるぐらいしか道が残らないのだけれども、なんで近代的な市民が居ないのかといえば、近代的な市民になるにはある一定の責任が必要だからですね。江戸で無血開城が可能だったのは勝海舟が偉かったというより、江戸に住んでいる大半の人が政治とは無縁な町人だったからだと思うのだけれども、江戸時代の町人というのは、当然、近代的な市民ではないから、政治とかイデオロギーとは無縁に生きている。同じように現代の東京の市民も江戸時代の町人とたいして変わらずに政治とかイデオロギーとは無縁に生きているというか、責任を放棄して生きていたいと思っている。だから「電気ないと困るでしょう」と言われれば何も言えない。簡単に無血開城して,ごく一部が彰義隊になるぐらいしかない。こうした状況の中で風間が孤独な戦いを続けられるのは、彼女が近代的な個人だからだと思う。近代批判を口にする風間が近代的な個人であるというのは変な話だけれども、風間が選択する漫画的な手法、つまり物語りを設定してそれをデザインしていくという方法が、近代が何であるのかがよく分からないくせに、近代批判を展開して、近代的であることを許さない日本の現代美術の中で、近代的であることが出来る数少ない方法であることは重要な問題であると思う。